前年8月に大阪支店に赴任し、この年の9月に本社帰任が控えていました。転勤と言うより長期出張とも言うべき1年間を、日本屈指の高級住宅地、六麓荘の南東側、西宮市樋之池町というところで過ごしました。
そして40年前の今日、昭和60年8月12日午前、数ヶ月前に夫を亡くした叔母への弔問のために日帰りで東京に向かったのです。私用でしたので伊丹から飛行機を使いました。
叔母の元を辞して羽田に向かう途中、1年前まで在籍していた銀座の営業部門に帰任の挨拶のために立ち寄り、そこでたまたま取引先から戻ってきたY氏と会うことになります。アポなしですからまさに偶然です。Y氏は1年前までボクの上司でした。
広報部門への異動を報告して、ではこれから帰りますと言うと、
「冷たいなぁ。久しぶりに一杯やろうよ」
とY氏に誘われ、ボクは多分連休を取っていたのだと思いますが、場所と時間を約束して、近くの代理店で航空券の予約を翌日の便に変更しました。そして新橋の居酒屋のテレビで日航機遭難のニュース速報を見るのです。
頭の中がバーンとなり真っ白になりました。
その飛行機こそ数時間前にキャンセルした便だったからです。
テロップのオオシマ ヒサシの文字とそれが坂本九であるアナウンスは鮮明に覚えているのですが、その後の記憶が全くありません。間違いなく実家に泊まったはずなのに本当に憶えていないのです。
翌日、どうやって帰ったのか記憶の断片すらありません。
そう言えば昨年、ふと伊丹空港の駐車場のイメージが頭に浮かび、そうだ車で行ったんだと、何となく思い出したような気がしました。
ただ往きなのか帰りなのかも分かりませんし、ただ漠然と伊丹空港の駐車場のゲートを抜ける場面だけが蘇ったのです。
家内も当日前後のことは殆ど憶えていないそうです。11月に二番目の子供が生まれる予定でしたのでなおさらかも知れません。ただ翌日の伊丹到着時刻前に空を見上げたことだけは憶えているそうです。
「ああ、今日帰ってくるんだ」
と思ったと。
あんなに大きな事故だったにもかかわらず、ふたりとも当日の記憶がほとんどありません。
脳は不思議です。嫌なこと、思い出さない方がよい記憶は遮断するのだそうです。
40年経った今でも、あの日の記憶はほとんど遮断されたままです。