うさぎ

「あなたなのね」
「ボクだよ」
6年ぶりの会話はお互いを確認することから始まった。
「あなたもここに来たのね」
「だから今こうやって君の前にいる」
「そうね」
「そうさ」
「1年前の今日よ、私がここに来たのは」
「ボクはここの雑記帳を見た。君がボク宛に書いたメッセージ。偶然とは思えない、何か強いものを感じたんだ。多分このお店のお陰だ」
「あなたの指定席は左から二番目。そして私は空いている隣」
「君は素敵なお客だった」
「マスターのアイディアよ。私はあくまでもお客のひとり。接客をしたら駄目だって言われていたの」
「お店を閉めたって聞いたときはびっくりした」
「突然だったわ」
「君とデキてしまったことが原因かも知れない」
「ほんと?」
「うそ」
彼女は彼の腕を軽く叩いた。
店の名は『うさぎ』といった。銀座でも老舗のバーで、6年前に突然店をたたんだ。閉店を惜しんだ酒造メーカーが、カウンターまわりの造作一切を買い取った。そして今はディストラリーの観光用施設の一環として移築され、旧き良き時代のバーの雰囲気を伝える役目を担っている。そしてふたりはその中にいた。
「あなたが来るとあのソーダ・ディスペンサーが活躍したわ。今どきあんなディスペンサーはないわね」
彼女はバー・カウンターの中ほどにある旧式のソーダ・ディスペンサーを見つけて懐かしそうに言った。
「でも何かひとつ足りないものがあると思わないか」
「何かしら」
「電話さ。電電公社のマークが入ったダイヤル式の黒い電話。入ってすぐ右側にあって、10円を入れる缶が置いてあった」
「お店に出る日をあなたに連絡するときはいつもあの電話機をつかったの」
「だからマスターはボクたちのことを気づいていた」
「そうね」
「そうさ」
「変わらないわ。私が『そうね』と言うとあなたは必ず『そうさ』と答えるの」
「きらい?こういう言い方」
「好きよ。とっても」
「掛けないの?」
彼女は空いているふたつのスツールをさした。
「昔に戻ってしまうかも知れないよ」
「私は構わないのよ。そうでなければあなたに逢いに来ないわ」
「ボクだって来ない」
「そうね」
「そうさ」
彼女は少しだけ笑った。
「ねえ、キスしてくれる?」
「店の外でね。そういうきまりだった。その前にハイボールを一杯だけ飲まないか」
「そうね」
彼は彼女を抱き寄せると耳元で言った。
「そうさ」

2006年11月11日